「チャスラフスカ の逝去を悼む」
(2016.9のブログの詳細 2016.9.2 中所)
1964年の東京オリンピックの体操女子で3つの金メダルを獲得し、
「東京の恋人」とも呼ばれたチェコのベラ・チャスラフスカさんが
8月30日に亡くなったとのニュースで,すぐ思い出したのは,
学部4年生の時の国鉄での4週間の実習(現在のインターンシップ相当)の
報告書の最後に以下のように記したことである.
「10月24日 チャスラフスカの優勝を喜びつつ」
これは,東京ではなく,1968年のメキシコオリンピックのときである.
実習報告書の記述内容として不真面目では!? と思われるが,
「1968年」という時代的背景がある.
【実習報告書】
学部4年の夏休みに,
日本国有鉄道(東京電気工事局 東京第3電気工事所 上野詰所)にて
4週間(1968年7月15日〜8月10日)の間,実習を行い,
1968年10月25日に学科事務室に実習報告書を提出し,受理されたもの.
・手書き原本を音声入力で活字化
http://www.1968start.com/M/bio/olduniv/6810jisshu.html
・手書き原本をPDF化(上記フレーズはp.10にあり)
http://www.1968start.com/M/bio/olduniv/6808jisshu/196810jisshu.pdf
【時代的背景の解説】
・1968年春:いわゆる大学紛争が激しくなり始めた.
・1968年8月下旬:富士山のふもとの宿舎で,とある合宿をしていたとき,
ソ連によるチェコスロバキア侵攻のニュースが飛び込んできた.
・Wikipediaによると,
チャスラフスカのメキシコオリンピック参加は政治的事情で非常に危ぶまれていた。
チャスラフスカは1968年のチェコスロバキアの民主化運動(「プラハの春」)の
支持を表明して「二千語宣言」に署名しており、同年8月のワルシャワ条約機構による
軍事介入、プラハ侵攻によって身を隠さざるを得なかったのである。
1968年のメキシコオリンピックはプラハ侵攻の直後であり、
チャスラフスカはオリンピック直前にようやく出国を許可された。
【今,思うこと】
「チャスラフスカの優勝を喜びつつ」と記述した時の心情は思い出せないが,
おそらく,上記の時代的背景があり,当時の反体制の風潮の中での称賛の意と思われる.
当時,ある新聞記事に「ドゥプチェク第一書記は,左折のウィンカーをだしながら,
ハンドルを右に切った」という表現があり,記憶に残っている.
以上