「眠りの深さが世界の意味」とは (2015.12のブログの詳細)
大晦日の日に新聞の社説「深くねむるために」
http://www.asahi.com/articles/DA3S12140979.html?ref=editorial_backnumber
に引用されている鶴見俊輔の次の詩が目に留まった:
深くねむるために 世界は あり
ねむりの深さが 世界の意味だ
50年近く前の自作の詩を思い出す.
「その価値を問わず/すべてが眠ってしまった世界」
のフレーズを含む詩(「冬の詩」または「絶対零度」)の全体は,以下のページ:
→ http://www.1968start.com/M/bio/olduniv/1967poemB.htm
そこで、「眠りの深さが世界の意味」の解釈を知りたくて
以下のキーワードでWeb検索をしてみた。
(引用された詩は,私の詩でいいたいことと似ているだろうか?)
検索結果の最初の13件でこの詩が引用されていた。
今日の社説の引用もあるが、以下の13件目の中に意味解釈らしき記述あり:
■『臨床哲学』第8号:
http://www.let.osaka-u.ac.jp/clph/pdf/vol8.pdf
の中の論文【安楽のすすめ−〈生きにくさ〉をほぐす・・・臨床哲学安楽班 35】
から,以下を抜粋(p.108):
<引用開始(下線,赤字はここで追記したもので,原本にはない)>
IV. 安楽の創造性
眠りの安楽と不眠
からだもこころも元気なとき、安楽などということばは浮かんでこない。ひどく疲れた身がようやく思いつく逃げ道、すぐには届かないところにある寝床に安楽という名前がつけられる。
鶴見俊輔が80 歳にして初めて出した詩集『もうろくの春』(2003 年3月1日、編集グループ〈SURE〉)に、「かたつむり」と題されたわずか二行の詩がある。
深くねむるために 世界は あり
ねむりの深さが 世界の意味だ
難解な言葉はない。なのに、めまいを覚えるような読後感は何によるのだろう。世界の意味を知るために、人は目覚めていなければならないのではなかったか。眠りが深まれば深まるほど、世界はわたしから遠のき、わたしはわたしの底に沈んでしまうのではないのか。逆説的に語られたことに、どんな意味があるのだろう。焦るように考えれば考えるほど、思考がもつれて身動きできなくなる。鶴見は自らが詩を書くことについて、インタビューで次のように語っている。「論理学でいうアブタクション(仮説形成)に相当します。最初に何か書こうとする動き、学術的なものになるか散文になるかわからない、未分化なところとかかわっているんです」と。思考の始源たるカオスをあやうく掬い取った小さなことばたちが身を震わせるさまに、いましばらく眼を凝らしてみよう。もう一編の詩がある。無題である。
痛いめざめ
こころよい眠り
おぼえておきたいこと
忘れてしまうこと
反対の方向にむかって
同時にすすむ
めざめが痛いのだ。世界と格闘する生き方ならば、確かにそうかもしれない。わたしが
世界と対峙して、わたしの輪郭をくっきりと切り取るように生きるのならば、覚醒は苦痛
である。
<引用終わり>